
文久2(1862)年から明治2(1869)年まで伊藤慎蔵がひらいていた蘭学塾の跡。
幕末に大坂で敵塾を開いた緒方洪庵は名塩の医者億川百記の娘八重と結婚した。
適塾の門下生伊藤慎蔵も八重の世話で名塩出身の娘と結婚したが、病弱だった妻の静養のため
名塩に移住し億川百記らの協力で蘭学塾を開いた。
現在建物は残っていないが、その跡地に緒方洪庵夫人の八重の胸像の蘭学の記念碑がつくられた。







西宮北部地域の人口増加による水の需要増加に対応するため、昭和52(1977)年に
船坂川の流れをせき止めて丸山の麓に作られたダムで、近くにあった寺の名前から金仙寺湖とも言う。
湖畔に植えられた桜並木は花の時期には大勢の人で賑わう。


甲東梅林は、大阪の事業家の芝川又右衛門氏が明治29(1896)年にこの地で果樹園経営を
始める時にブドウ、柿、桃などの果樹と共に梅、桜、楓、楠などの植栽を行ったのが始まりと言われる。
昭和22(1947)年の甲陵中学校の建設にともない、当時運動場敷地にあった梅の木を現在の場所に
移植し、昭和37(1962)年に甲東公民館が開館するまでは同校の生徒によって手入れがされていた。
甲東公民館の改築に伴い、平成9(1997)年に梅林が公園施設として整備された。
樹齢100年を超えるものが多く、種類も早咲から遅咲きまで集められ39品種、約200本に及び、
さまざまな色や形の梅の花が1月から3月まで長い期間にわたって楽しめる。






明治時代の病気の流行や衛生意識の高まり、冬の酒造期に宮水を大量にくみ上げる事による
井戸の水位低下や濁りなどによって、上水道の必要性が高まっていたため明治45(1912)年に
西宮町会ではじめて水の問題が取り上げられた。
さまざまな調査の後、大正12(1923)年に越水浄水場が開設し、工事費用総額135万円の
半額以上を寄附して計画推進に寄与した辰馬吉左衛門と八馬兼介をたたえる紀徳碑が
大正14年に建てられた。
普段は立入禁止だが、昭和23(1948)年からは春の桜の時期に場内が一般開放され
桜の通りぬけが楽しめる。
この桜は浄水場開設時に町長や有志が寄附して植えられたのが始まりで、昭和28(1953)年には
笹部新太郎氏によってソメイヨシノにかえて山桜や枝垂桜などを植えるよう指導や管理がなされ、
現在は多品種の桜を一度に見ることのできる市内随一の場所となっている。
浄水場という施設の性質上、場内での飲食は禁止となっているが、浄水場西門横の
震災記念碑公園であれば桜を見ながら飲食する事も出来る。







満池谷やニテコ池や震災記念碑公園周辺は現在桜の名所として春先にはとても賑わう。
満池谷火葬場が明治40(1907)年に当時の大社村に開設。
市役所建設や阪神国道(国道二号線)開通などの開発のために六湛寺や海清寺の墓地の移転が
必要となったので、満池谷の墓域を拡大し昭和4(1929)年に当時の日本一の公園墓地が完成した。
ニテコ池は、室町時代に西宮神社の大練塀を作るときに土を掘り出したあとが池となったと伝えられ、
土を運ぶ時の掛け声「ネッテコイ」が「ネテコ」「ニテコ」と呼ばれるようになったいう。
もとは農業用ため池だったが大正13(1924)年からは越水浄水場の施設の一部となっている。







辰馬財閥分家である南辰馬家当主辰馬喜十郎が明治21(1888)年に作らせた
擬洋風建築の邸宅。
自宅の新築にあたり、日本人大工に神戸英国領事館を模して作るように指示したと伝えられ、
木造二階建てで、一階二階ともに正面から南側にかけて列柱のあるベランダや、
両開きの鎧戸などが、神戸異人館でも見られるようなコロニアル風デザインとなっているが、
一般公開はされていないため内部の見学は出来ない。
昭和56(1981)年に西宮市指定文化財に、昭和57(1982)年には兵庫県指定文化財となっている。






えびす様の伝承にまつわる場所におこしや跡がある。
昔、鳴尾の漁師が漁をしていると網に何か重たい物がかかり魚ではないので
海に戻したが、そのあと和田岬あたりでの漁でもまた重たい物がかかり、
それは朝海に戻したものと同じものだった。
不思議な事があるものと思い、神様の像のようにも見えるので今度家へ持ち帰って
置いておいたところ、「西によい場所があるので、そこでおまつりして拝めば大漁に
なるだろう」と、漁師の夢の中にえびす様が現れた。
目が覚めてから漁師たちはえびす様をかごに乗せて西へ向かったが、途中でえびす様が
居眠りしてしまい時間がどんどん過ぎるので、恐れ多くもえびす様のお尻をつねって起こし、
そこから少し西の森の中へ無事お運びすることが出来たという。
このえびす様を起こすのにお尻をつねった場所が御輿屋跡地でその西の森は
西宮神社にあたる。
毎年6月14日にまつりがあり、その夏初めて浴衣を着るので「ゆかた祭り」、
神輿に旬の枇杷の実を飾り付けるので「びわ祭り」ともいわれる。







えびす信仰を人形劇で分かりやすく全国に広めていった傀儡子(くぐつし・かいらいし)
たちが住んでいたとされる西宮神社の北側に、えびすまわし発祥の地を記念して
傀儡師の像が建てられている。
この人形操りを生業とする者(傀儡師・木偶廻し・人形まわしなど)は平安時代にあわられ
各地をめぐっていたが、室町時代に現在の産所町に住み着くものが現れ、西宮神社の
雑役奉仕をしながら諸国をめぐった。
室町時代末頃には「えびすかき」「えびすまわし」といわれ、京都の宮中で公演することも
あるほどになり、江戸時代には淡路の人形遣いや大阪の人形浄瑠璃芝居へ発展したと
いわれるが、西宮のえびすまわしは江戸時代末頃から姿を消してしまった。
傀儡師が信仰していた百太夫をまつった神社は現産所町にあったが、
傀儡子が姿を消したあとは西宮神社の境内に移されて現存している。





