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西宮市山口町上山口709 |
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078-904-0609 |
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浄土真宗大谷派の寺であるが、江戸代初期の貞享3(1686)年の火災で文書などを
焼失したため、創立年など詳しい事は分からない。
本尊の阿弥陀如来立像はヒノキの寄木造で目には玉眼がはめられており、
緩やかな泉で刻まれた衣文の様子などから鎌倉時代後半に作られたと考えられ
国指定重要文化財となっている。
これは近くにあった永蓮寺が焼けたため明徳寺に移されたといわれ快慶作と伝えられている。
また教行寺を作った蓮如上人の掛け軸も残されている。






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西宮市生瀬町2-20-24 |
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0797-86-4626 |
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浄土宗西山派の祖とされる善恵坊証空上人が鎌倉時代中頃の嘉禎4(1238)年にひらいたとされる。
この寺の縁起によると、証空上人が有馬へ向かう途中の琴鳴山のふもとで平家落ち武者の盗賊に
襲われたが、上人は彼らを諭し改心させた。
そして急流のために橋が架かっていなかった武庫川にきちんとした橋を架け、橋守としてそこを
通行する旅人から通行料を取って生計を立て、その橋の管理維持のために寺を建てることをすすめて
出来たのがこの浄橋寺だという。
鎌倉時代前半の作とみられる本尊の阿弥陀如来坐像と両脇持像、寛文2(1244)年の銘のある銅鐘は
国指定重要文化財(重要文化財)に指定されており、室町時代後期の享禄4(1531)年に描き写された
善恵上人伝絵は県指定文化財、文書や石造物などの市指定文化財など多くのものが残されている。






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西宮市名塩1-20-16 |
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0797-61-0639 |
| 備考 |
見学には事前予約が必要 |
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室町時代の文明7(1475)年、浄土真宗本願寺派の蓮如上人が布教した草堂から始まった。
のちに諸大名や京都の公家とのつながりも深くなり、彼らと取り交わした書状などが残されている。
ひときわ目立つ城郭のような建物は太鼓楼。



名塩和紙学習館
名塩蘭学塾跡


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西宮市名塩木之元21-1 |
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0797-61-0902 |
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室町時代の文安2(1445)年に戦に破れこの地で自害した赤松満政とその一族を
供養するために建立されたといわれる。
本尊の木ノ元地蔵は、紀伊の木之元、近江の木之元とともに、聖徳太子が鎮護国家のために
一本の木から三体の地蔵を作ったといわれる日本三体地蔵のひとつだといわれる。
この地蔵には火にまつわる伝承があり、安土桃山時代の天正年間(1580年頃)に兵火で寺が
焼けた時に地蔵自ら火の中から飛び出して一部焼けただけで済んだので焼け地蔵といわれるようになった。
また、地元に住んでいた川辺音次夫婦が赤ん坊を家に残して裏山に薪をとりに行ったときに
家が家事になり、あわてて戻ると燃える家の中で日ごろ信心している木ノ元の地蔵が火の粉を
袖で払って赤ん坊を守っていたため、赤ん坊は無事だったが地蔵はやけどをして左の頬と衣に
その傷が残っているという事から火伏地蔵と呼ばれる、という民話もある。






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西宮市山口町船坂572 |
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078-904-3773 |
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室町時代の寛正2(1461)年、釈善想が開いた寺で、はじめは浄土宗だったが浄土真宗本願寺派の
蓮如上人に帰依して浄土真宗になったと伝えられている。
本尊の阿弥陀如来立像はもとは播州加東郡上久米村にあったが、夢のお告げで善照寺に
運ばれてくる事になったという言い伝えがある。
善照寺にまつられるようになって後、黄金仏と呼ばれたこの阿弥陀像を盗み出そうとした
泥棒がいたがどうしても寺から持ち出す事が出来なかった事から、盗難除けの霊験があると
いわれるようになった。
台座と仏像の足の間にわずかな隙間があるために「浮足如来」ともよばれ、その隙間に紙を入れて
仏像の足型を取り、その紙を家に置いておくと泥棒除けになるといわれている。






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西宮市熊野町3 |
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平安時代頃から広井の庄として開けていた地域に古くからある神社のひとつ。
拝殿の横には江戸時代初期の寛永17(1640)年銘のある市内最古の石灯籠が一基ある。
また、境内には算学神社と毛利重能(もうりしげよし)の顕彰碑がある。
瓦林の住民であった毛利重能は日本の算学の祖といわれる人物で、元和8(1622)年に
日本で始めて出版した数学書『割算書』は当時の日常の算法を広め、経済発展に大きく
寄与したといわれる。
それを記念して、『割算書』刊行350年に当たる昭和47(1972)年に全国珠算教育連盟などが
発起人となり顕彰碑を建て、奨学・進学の神として毛利重能をまつる算学神社も建てられた。
8月の祭りではそろばんで作られためずらしい神輿がでる。




年末年始 地元の神社仏閣を訪ねてみよう (2008年度記事)


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西宮市日野町2 |
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南北朝時代(1330年頃)に建てられたとみられる瓦林城内に、瓦林弾正左衛門が
一族の氏神として建立したといわれる神社。
瓦林城が戦国時代の元亀元(1570)年に落城の後、神社だけは地域の氏神として残ったと
いわれるが、城の遺構などが見つかっておらず、今の神社の場所に城があったかどうかは
はっきりしない。
神社を囲む社叢は兵庫県の天然記念物に指定されている武庫川の沖積地に発達した
常緑広葉樹林で阪神間ではきわめて貴重な存在となっている。




年末年始 地元の神社仏閣を訪ねてみよう (2008年度記事)


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西宮市名次町 13 |
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ニテコ池の北西にあり現在は広田神社の摂社となっている小さな神社だが、
平安時代の書物『延喜式』にも名が見える古い神社である。
社殿の横に「上総国浦々、西宮講中、正徳五乙未歳正月吉日」(1715年)と背面に刻まれた
石の祠があるが、これは江戸時代中頃に西宮から関東へ漁に出かけ、またその地に
定住した人々が故郷に奉納したものと考えられる。
現在この祠のまわりには防犯センサーが付けられているので、見学の際には
近づきすぎないよう注意すること。
また、万葉集に「我妹子に猪名野は見せつ名次山津努の松原いつか示さん」(愛する人に
猪名野の風景は見せたから、名次山と津門の松原はいつ見せようか)と読まれている名次山とは
現在の名次神社あたりの場所を指すといわれ、古くから風光明媚な場所として知られていたらしい。




年末年始 地元の神社仏閣を訪ねてみよう (2008年度記事)

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西宮市松原町2-26 |
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現在の津門の辺りは、万葉の時代から「角(つぬ)の松原」として広く知られた
松林の美しい場所で、和歌にも詠まれている。
平安時代の延喜元(901)年に京都から大宰府に左遷される途中の菅原道真が
このあたりで休憩したといわれ、その場所に後世になって建てられたのが松原神社である。





年末年始 地元の神社仏閣を訪ねてみよう (2008年度記事)


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西宮市西波止町4-4 |
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江戸時代末頃に西宮で米穀商を営んでいた當舎屋金兵衛(とうしゃやきんべえ)は、
江戸へ送る酒の船積みなどで栄える西宮の港が夙川からの土砂で埋まり
使いづらくなるため、港の改修を決意した。
そのため沖へ1kmほど伸びる防波堤を造ろうと計画し、寄附を募り、
完成図を描いた絵馬を西宮神社へ奉納して祈念した。
享和2年(1802年)に着工したが工事が難航したので、工事の成功を願って海上交通の
守護神住吉大神を勧請して文化2年(1805年)に住吉神社が建立された。
当初はもう少し浜の先に祀られていたが明治2(1869)年に現在地へ移された。
境内にある當舎屋金兵衛港湾修築碑は昭和3(1928)年に建てられ、
平成17(2005)年には鎮座200年記念の境内整備事業でも金兵衛の顕彰記念碑が設置された。




香櫨園浜
御前浜橋
新西宮ヨットハーバー

