
三田と有馬を結ぶ有馬軽便鉄道が大正2(1913)年開通し、大正8年に買収され国鉄有馬線と
なったが、昭和18(1943)年に廃線となった。
その廃線跡の一部にあたる有馬川右岸(東側)の明治橋から十王堂橋までの間を平成8(1996)年に
緑地として整備し、同時にホタルの保護活動がはじめられ、初夏にはホタルが見られるようになった。
また、春には桜の名所としても賑わう。







浄土真宗大谷派の寺であるが、江戸代初期の貞享3(1686)年の火災で文書などを
焼失したため、創立年など詳しい事は分からない。
本尊は、鎌倉時代後半に作られたと考えられる阿弥陀如来立像で、国指定重要文化財と
なっている。
これは近くにあった永蓮寺が焼けたため明徳寺に移されたといわれ快慶作と伝えられている。
また教行寺を作った蓮如上人の掛け軸も残されている。






浄土宗西山派の祖とされる善恵坊証空上人が鎌倉時代中頃の嘉禎4(1238)年にひらいたとされる。
この寺の縁起によると、証空上人が有馬へ向かう途中の琴鳴山のふもとで平家落ち武者の盗賊に
襲われたが、上人は彼らを諭し改心させた。
そして急流のために橋が架かっていなかった武庫川にきちんとした橋を架け、橋守としてそこを
通行する旅人から通行料を取って生計を立て、その橋の管理維持のために寺を建てることをすすめて
出来たのがこの浄橋寺だという。
鎌倉時代前半の作とみられる本尊の阿弥陀如来坐像と両脇持像、寛文2(1244)年の銘のある銅鐘は
国指定重要文化財(重要文化財)に指定されており、室町時代後期の享禄4(1531)年に描き写された
善恵上人伝絵は県指定文化財、文書や石造物などの市指定文化財など多くのものが残されている。






文久2(1862)年から明治2(1869)年まで伊藤慎蔵がひらいていた蘭学塾の跡。
幕末に大坂で敵塾を開いた緒方洪庵は名塩の医者億川百記の娘八重と結婚した。
適塾の門下生伊藤慎蔵も八重の世話で名塩出身の娘と結婚したが、病弱だった妻の静養のため
名塩に移住し億川百記らの協力で蘭学塾を開いた。
現在建物は残っていないが、その跡地に緒方洪庵夫人の八重の胸像の蘭学の記念碑がつくられた。







体験を通して名塩の紙漉き文化を学ぶため、平成元年に開館。
名塩和紙とは、材料の雁皮に地元産の泥を混ぜて溜め漉きでつくる和紙(雁皮紙)で、
虫食いや日焼けに強いため、薄手のものは箔打紙や屏風の下貼り用に、厚手のものは
藩札(各藩内で通用するお金)用として全国から需要があった。
江戸時代には名塩千軒と呼ばれるほど栄えていたが、現在では名塩雁皮紙の
技術保持者(人間国宝)に認定された谷野武信氏ともう一軒の計二軒を残すのみとなっている。
名塩の紙漉きの起源はいくつかの説があるが、一つは、浄土真宗本願寺派の蓮如上人が
室町時代の文明7(1475)年に名塩に来た時に同行していた越前の紙漉き職人がこののち
名塩にとどまってはじめたとされるもの。
また、水上勉の『名塩川』という小説に書かれたように、東山弥右衛門が伝えたという伝説もある。
それは名塩から越前へ紙漉技術を学びに行ったが紙漉技術は門外不出のためよそ者には教えて
もらえなかった。
そのため紙漉の家の養子となり村の娘と結婚してようやく技術を身につけたが、貧しい山村の
ふるさと名塩にこの技術を持ち帰るため、妻子を捨てて名塩に戻って紙漉を広めたというもので、
いずれも越前から技術が伝わった事をうかがわせる。
東山弥右衛門の徳を偲んで紙漉仲間によって幕末に建てられた墓は今も名塩の墓地に残っている。







室町時代の文明7(1475)年、浄土真宗本願寺派の蓮如上人が布教した草堂から始まった。
のちに諸大名や京都の公家とのつながりも深くなり、彼らと取り交わした書状などが残されている。
ひときわ目立つ城郭のような建物は太鼓楼。
室町時代の文安2(1445)年に戦に破れこの地で自害した赤松満政とその一族を
供養するために建立されたといわれる。
本尊の木ノ元地蔵は、紀伊の木之元、近江の木之元とともに、聖徳太子が鎮護国家のために
一本の木から三体の地蔵を作ったといわれる日本三体地蔵のひとつだといわれる。
この地蔵には火にまつわる伝承があり、安土桃山時代の天正年間(1580年頃)に兵火で寺が
焼けた時に地蔵自ら火の中から飛び出して一部焼けただけで済んだので焼け地蔵といわれるようになった。
また、地元に住んでいた川辺音次夫婦が赤ん坊を家に残して裏山に薪をとりに行ったときに
家が家事になり、あわてて戻ると燃える家の中で日ごろ信心している木ノ元の地蔵が火の粉を
袖で払って赤ん坊を守っていたため、赤ん坊は無事だったが地蔵はやけどをして左の頬と衣に
その傷が残っているという事から火伏地蔵と呼ばれる、という民話もある。





江戸時代の初めに豊臣勢の落ち武者の武田尾直蔵が見つけたといわれる温泉で、
武庫川をはさんで西宮と宝塚にまたがり、現在4軒の温泉旅館がある。
近くには、水上勉の小説『櫻守』のモデルとなった、桜の保護育成に尽力した笹部新太郎の
演習林を整備した桜の園「亦楽山荘(えきらくさんそう)」があり(宝塚市)、桜や紅葉の時期には賑わう。
旧福知山線の武田尾駅と生瀬駅を結ぶ廃線跡のハイキングも人気があるが、その道は
JRの私有地であってハイキングコースではなく、亦楽山荘まではどうしてもトンネルを二つ
通らなければならないので、宝塚市が遊歩道として多少整備しているが、その先は原則として
立入禁止の場所である。






美しい自然と風土を持つ山口町の文化を後世に伝えるために、財団法人山口町徳風会
(旧山口村の森林組合が前身となっている団体)の30周年記念事業として建てられた。
中世以前から現在までの山口町に関する数多くの資料が見やすく保存展示されており、
山口町の代表的な産業であった寒天・竹かご・和紙の技法などが紹介されている。
また、山口地区7基のだんじりについても紹介されており、一年交替で7基のうちの
どれかが展示されている。





