2011/08/17
第27回特別展示 西宮の講-つどいの民俗-
2011年7月17日(日)~8月31日(水) 西宮市立郷土資料館
8月17日(水)の歴史講座を聴講して展示を見た感想ご紹介します。
講(こう)とは、信仰を同じくする人たちが集まった団体を指すのが始まりです。
時代が下るにつれて、宗教的なつながりだけでなくある目的を達成するために
人が集まること全般を指す言葉にもなったそうで、たとえば互いに掛け金を出して
お金を融通する経済的な集まりの頼母子講(たのもしこう)などがあります。
今回の展示は宗教的な集まりの講ですが、今の西宮に残っているものや昔あったものなどで
伊勢講、地蔵講、えびす講、観音講、稲荷講、行者講、念仏講、種池講などさまざまあり、
また関東のほうでは富士山を信仰する冨士講なども盛んにおこなわれていたようです。
ここでは展示内容や講座で解説のあった個々の講の活動の様子については詳しくは
紹介しませんが、そのおもな活動は、だいたいは村の単位の中である神仏を信心している
人たちがグループを作り、年に一回から数回当番の家に集まって信仰する神仏を拝み、
その後お供え物のお下がりを頂いて会食をするということだそうです。
もちろん信心も重要ですが、娯楽の少なかった時代にはみんなで集まって会食をすると
いうことが楽しみだったそうです。
山口町や門戸や大市や津門などでそれぞれの講がどのように構成されて、どのような
活動をしているかという様子が写真パネルや祭具などの展示でわかりやすく
説明されています。
神社などへ行った時に玉垣や灯籠などに○○講という文字を見ることがある程度で
現代にはもう縁のないものかと思っていましたが、西宮にもまだまだこのような講という
人のつながりがいくらかでも残っているという事はおどろきました。
けれど、今でも比較的見かけることの多い地蔵盆をおこなう活動は、最近では
ご近所の少数の有志の方達のお世話や地域の子供会などの担当になり、
本来なら地蔵講にあたるものなのでしょうが、人々の中に講という言葉や意識として
残っていないことも多いそうです。
また生活環境の変化により、講をたく日が毎月21日といったふうに固定できず、講員の
集まりやすい休日に変わったり、さらに講員が少なくなって活動を休止したり
解散することが増えてきたそうなので、今回のような地道な調査で記録を残して
いくことが郷土資料館の重要な仕事なのだなと改めて思った展示でした。
2011/06/16
第34回特集展示 「百姓逃散―江戸時代の百姓ストライキ―」
4月26日(火)~7月10日(日) 西宮市立郷土資料館
6月15日(水)の歴史講座を聴講して展示を見た感想ご紹介します。
逃散(ちょうさん)とはあまり聞きなれない言葉ですがいわゆる一揆の形態の一つで、百姓達が
武装蜂起するのではなく、申し合わせた上で耕作を放棄し一斉に村を出てゆく行動をさします。

今回の展示は、元文3(1738)年7月におきた旗本青山氏領百姓逃散事件に関する資料。
江戸時代中頃の享保年間(1715~35年頃)には旱魃や水害や蝗害(イナゴの発生)など
度重なる自然災害が発生し農村は疲弊していたが、旗本青山氏領の代官安東茂右衛門は
数年にわたり厳しい年貢の取立てを続けた。
期日までに納められなければ家屋敷田畑を捨てて村を出て行けとまで言われてとうとう
耐えられなくなった村人達は相談の上で村を出て縁故を頼って近隣の村へ身を寄せ、
悪政を訴えるため大阪町奉行所にも訴状を投げ込んだ。
このとき逃散したのは旗本青山氏領で代官安東茂右衛門が治めていたうちの一部の村
下大市村・下(久右衛門)新田・中村と、現在の尼崎市の次屋村・浜村・水堂村の6か村。
8月には幕府の吟味の結果、代官安東茂右衛門は追放、領主青山氏は拝謁停止。
農民側は首謀者の下大市村庄屋が遠島、他の庄屋が重追放、他29人が過料(罰金)で、
農民側の刑が不当に重かった。

以上が今まで一般的に言われている元文3年の逃散事件ですが、今回の講座では
訴状の内容を詳しく説明いただき、まず農民側の主張を理解しました。
代官安東茂右衛門は耕作していない荒地にまでも高い税率で課税する、領主青山氏から
百姓達への飢饉のお救い米をいただいたのにそれさえも返納するようにという、
部下の役人が村に来たときの食事が粗末だったと罰する、米を換金するときのレートを
農民に不利な設定にする、等々。
農民側の訴状の控えが残っているだけなので、もちろん自分達に不利なことは
書いてないでしょうが、これを見る限りなかなかの悪代官ぶりのようです。
一方、安東の言い分はまったく残っていないのですが、追放というのは武士の身分を
剥奪することなので、けっして軽い罰ではなかったそうです。
今回の展示の逃散は西宮の農民の反乱の最大の事件で、また、この事件の判決が
この寛保2(1742)年制定の公事方御定書(幕府の基本法典)の中に、逃散に関して
初めて決められた罰則の基準とされたそうです。

寛永13(1635)年に青山幸成が尼崎藩主となり、武庫川西側の新田開発がすすむ
寛永20(1643)年に長男の幸利が藩主を継ぐ
このとき幸利の弟3人を分家として所領を分割し旗本領が出来る
正徳元(1711)年からは尼崎藩主は松平氏にかわる
享保17(1732)年の享保大飢饉をはじめ自然災害によって村々は疲弊
享保18(1733)年に青山氏分家の一つ幸通系青山氏領に代官安東茂右衛門が着任
元文3(1738)年に代官安東の悪政により幸通系青山氏領の一部で逃散事件発生
寛保2(1742)年に幕府の法律の公事方御定書に逃散の刑罰が定められる
旗本青山氏領地と聞いて尼崎藩主の青山氏と同じなのか違うのかよく分からなくなったので
調べてみると、分家して阪神間の領地を細かく分けて所有していたのですね。
そのため江戸時代中頃には村ごとにまたは同じ村の中でさえも天領・藩領・旗本領などと
領主が違っている事もありとても入り組んでいたようで、だから今でも西宮・尼崎・伊丹・
芦屋に尼崎藩領界碑といわれる石碑が残っているのだなと納得しました。
このような大きな事件が西宮であったということですが、私は今までほとんど知らなかったので
展示と歴史講座での説明はとても興味深く勉強になりました。
また、歴史の教科書で見た傘連判(からかされんぱん)というものは、首謀者を隠す目的のため
だけでなく一致団結するときに用いられる方法だそうで、ヨーロッパや朝鮮半島でも同じような
署名の方法があると聞き、そのことにも興味がわきました。
<香苗>
2010/07/13
西宮には、江戸幕府による大阪城再建(1620~29)による採石場があり、
現在では神戸市東灘区から芦屋市と西宮市西部までの範囲を指して
「徳川大阪城東六甲採石場」とよばれています。
甲山森林公園の展望台辺りにその跡がよく残っているという事で案内してもらいました。

その前に、街中で比較的簡単に見られる物も紹介すると、
常磐町の一本松横に立つ分銅マーク
柏堂の北山緑化植物園入り口の分銅マーク 越木岩神社境内の四角組み合わせのマーク

などが分かりやすいでしょうか。
このように石にマークが残っているものは、どこの藩が手配したものかが分かるようにするために
刻まれたものらしく、刻印石といわれています。
そして甲山森林公園には、越木岩神社境内の四角組み合わせと同じ、佐賀藩鍋島家の刻印だと
考えられる刻印が残されている石を見ることが出来ます。
甲山森林公園の中でも展望台の裏の小山あたりにたくさん残っています。
下左の写真で数人の人が覗き込んでいるところには矢穴(やあな)が途中まで掘られたままの
残された石がありました。
矢穴とは大きな岩を割るためにのみで掘った小さな穴のことで、その穴の列にくさびを打ち込んでいくと
岩がかぱっときれいに割れるそうです。
下右写真に見える長方形のふたつの穴がそれで、これは穴を開けかけて途中で終わってるものです。
あ、ここからの眺めは展望台と同じく向こうの方に阪神競馬場が見えました。

また他の場所では、矢穴を開けてくさびを打ち込んで割った残りの不要なほうが残されています。
下右写真の指差してる石と手前の石とに残されている矢穴のサイズは加工年代によって違うそうで、
手前の15センチほどの大きいものは江戸初期頃、指差してる5センチ程のものは江戸中期以降の
ものだそうです。

展望台へ行く整備された広い道からもいくつか見えるみたいですが、それよりも展望台の裏の小山に
登る軽登山道のほうにたくさん残っているようです。
人が一人通れる程度の山道もありますので、行く場合には履物に注意してお出かけ下さいね。
石のある場所はこちら → 地図
<香苗>
2009/12/28
西宮神社の拝殿前にちょっと変わった門松が作られました。
「逆さ門松」という、松の枝が下を向いている門松です。
これは町を巡回するえびすさまが松の葉で目を突かないようにという
配慮から作られた形だそうで、枝葉の付いた竹に松の枝をつけるという
古くからの形のものが昨年より再現されています。

この門松を奉納しているのは西宮神社から分社した三田戎神社の氏子の方々で、
9メートルほどの竹に、松をある程度取り付けたものを用意してきていて、
すす払いが行われている横で二本の門松が立てられました。

正月から十日戎の期間までその立派な姿を見ることが出来ますので、
お参りに行かれた時はちょっと注意して見てください。
<香苗>
2009/09/24
西宮神社の秋祭り、西宮まつりの三日目は神社での神事の後、船渡御は西宮浜の新ヨットハーバーから
出発し神戸の和田岬へ向かいました。
えべっさんが鳴尾の漁師の網に掛かった場所という伝説のある和田岬への里帰り。
例年の産宮参りは一隻だけ十数人ほどの参詣だそうですが、今年は船渡御復興10周年を記念して
みんなで和田神社へ参詣することになりました。

渡御船の一部は神戸の港から陸路をとりましたが、えべっさんの乗っている船のほか合計四隻の船が、
到着です。
そして陸路で到着した人たちと合流して、和田神社まで行列していきました。

和田神社で御旅所祭をおこない、その後神職や氏子総代など一部の人が和田神社・三石神社・真光寺へ
参拝しました。
御旅所祭 童女神楽
巫女神楽 和田神社
三石神社 真光寺
帰路はみな陸路で西宮神社まで帰り、還御祭を執り行って無事終了となったようです。

<香苗>
2009/09/19
2009年の西宮神社の西宮まつりの船渡御は復興10周年ということで、全ての御座船が
神戸の和田神社への産宮参りに向かいます。
例年は神社を出て氏子4地区のどこかで御旅所祭をしてから午後に船渡御で西宮浜をまわるのですが、
ことしは午前中にヨットハーバーを出て、和田神社へ着いてから御旅所祭をおこなうようです。
見学に行かれる方は、時間などをよく確認してからお出かけくださいね。
西宮神社HP http://www.decca-japan.com/nishinomiya_ebisu/nisinomiya_maturi.html
・
ところで、和田神社とはどんなところかと言うと、恵比須さまを拾い上げたといわれる和田岬の森の中に
あった神社と、平清盛ゆかりの厳島神社の弁天さまと、西宮の岡太神社から流れ着いた天御中主
(あめのみなかぬし)さまをまつっています。

その横の神功皇后をおまつりしている三石神社にも参詣するそうです。

また、西宮まつりでは関係ないようですが、少し北のJR兵庫駅近くには柳原の蛭子(ひるこ)神社があり、
神戸の人の十日戎はここへお参りする人も多いそうです。

2009/09/13
秋晴れの日曜日、広田神社の神饌田の稲刈りがおこなわれました。
お田植えのときのような装束ではないとはいえ、今日も大変な作業です。
まずは稲がどんな風に育ってきたかというと
2009,06,24, 2009,07,26,

2009.08.25. 2009.09.13.

そしてよく実った今日が稲刈りとなりました。
たくさん集まった子供たちは、5月のお田植えで奉仕した早乙女や田童たち、
あと何人か聞いてみた限りでは安井地区子供会で参加しているようです。
まず神事を執り行い宮司さんがはじめの鎌を入れた後、子供たちが鎌で稲を刈っていきました。


神職さんにお伺いしたところ、この土地は以前は畑で数年前に田んぼとして耕作を
始めた場所だからなのか、初めのころは実の付きがあまりよくなかったそうです。
でも年々粒も大きくなって、今年は害虫にもやられずに、立派に実ってよかったと
おっしゃっていました。
まだ、乾燥させてから脱穀するという作業は残っていますが、とりあえず無事に収穫できて
よかったなと思いました。

この新米は11月23日の新嘗祭をおこなってから、神様のへの日々のお供えとして
使われるそうです。 <香苗>
2009/07/21
7月20日は西宮神社の夏祭です。
午前中には暑気払いで厄除けを祈願する湯立神楽(ゆたてかぐら)がおこなわれました。
ご祈祷した特別な水を大釜でわかし、そのなかに米・酒・塩を入れ、笹の葉を束にしたもので
その湯を撒き散らします。


古代の巫女が神憑るときにおこなった作法だとも言われている、と神職さんから説明がありました。
夕方はえびす万燈籠で、境内いっぱいにろうそくの明かりが灯ります。
暗くなるにつれて輝くを増すろうそくや灯籠やちょうちんの揺れる明かりは幻想的です。
境内の松林の中でおこなわれた原笙会による舞楽奉納も素敵でした。


はなやかな夕涼みとなりました。 <香苗>
2009/06/30
一年の半分が過ぎ、この半年間に知らず知らずのうちに犯した罪を祓うために(笑)
「なごしのおおはらい」に行ってきました。
もちろん他の神社でも神事は執り行われているのでしょうが、先日よりこの観光案内所で
紹介されていたのは西宮神社と広田神社と越木岩神社。
幸い雨も止んでいたので一番早く始まる越木岩神社(14時~)へお参りすることにしました。

うっそうと木の茂った参道を進んでいくと、明るく開けた境内には大きな茅の輪。
催行時間が近づくにつれて人がどんどん増えてきて、ぐずつきがちのお天気ではありましたが
70~80人ほどの参拝者が集まったのではないでしょうか。
茅の輪の前に祭壇が置かれていて、神職さんがいろいろ祝詞をあげて神事がとりおこなわれます。
そして参拝者は紙を小さく切ったきりぬさをいただき、「祓い給え清め給え・・・」とみな一緒に唱えて
きりぬさを自分の肩に左右左とかけてお祓いします。
その後、いよいよ茅の輪をくぐります!
確か左に二回、右に二回、左に二回、だったかな? 何回かくるくるまわります。

茅の輪くぐりの動画もあります http://www.youtube.com/watch?v=UxPl9SnwkqE
そして拝殿に入り、本殿祭を行い玉串をささげるのですが、ここからが越木岩神社恒例の
年代別の玉串奉奠(たまぐしほうてん)。
まずは氏子総代が玉串をささげるのですが、次に参拝者の中から、90歳以上の方、80歳代の方、
・・・10歳以下の方、とたくさんの年代の人が、その場で急に玉串をささげることになります。
今年の90歳以上の方で代表となった(前の方に座っていた)方はなんと98歳!
10歳以下の子供代表は小学生の男の子と幼稚園ぐらいの女の子。
なんだかいかにも地元の氏神様って感じがして、和やかな神事の締めくくりとなりました。
今年は夏越の大祓いの神事が終わった後で、禰宜さんによる講演会があって、大祓いの祝詞の
内容を説明していただき、よりしっかり分かった!と思うので(笑)、得した気分です。
今年の夏も暑そうですが、元気に過ごせるといいですね。
<香苗>
2009/06/16
6月14日はえべっさんが西宮神社へやって来られたという日だそうです。
今年の様子だけでなく昨年の写真も混じっていますが、雰囲気をお楽しみください。
西宮神社の本殿からえびすさまを神輿に乗せて、中央商店街をめぐってから御輿屋跡地まで巡行します。



昔、鳴尾の漁師が漁をしていると網に何か重たい物がかかりましたが魚ではないので海に戻しました。
そのあとも漁をつづけて和田岬のあたりに来た時にまた重たい物がかかりましたが、なんと朝海に戻した
ものと同じものでした。
不思議な事があるものと思い、神様の像のようにも見えるので今度は船のへさきに乗せて家へ持ち帰って
置いておいたところ、ある夜、漁師の夢の中にえびすさまが現れて「もう少し西によい場所があるので
この像を連れて行っておまつりして拝みなさい。そうすれば大漁になるだろう」と言われました。
目が覚めてから漁師は村人と共にえびすさまをかごに乗せて西へ向かっていましたが、途中でえびすさまが
居眠りしたので、村人達も木陰で休憩する事にしました。
でもいくら待ってもえびすさまが起きなくて時間がどんどん過ぎるので、恐れ多くもえびすさまのお尻を
つねって目を覚まさせて、そこから少し西の森の中へ無事お運びすることが出来ました。
このちょっと休憩してえびすさまのお尻をつねった場所が御輿屋跡地でその西の森が西宮神社です。


季節の果物の枇杷をお供えするので「びわ祭り」とか、初めて浴衣を着る季節なので「ゆかた祭り」とか
言われる、近畿で一番早い夏祭りだそうです。
西宮神社の境内には屋台がいっぱい並んでいて、浴衣を着た子供たちがたくさん遊んでいました。
私は神事と行列を見て夕方には帰ったのですが、そのあと夜にかけてまだまだ子供たちは盛り上がりそうでした。


西宮市民にも意外と知られていないお祭りだと思うのですが、西宮を代表する「えべっさん」ゆかりのお祭り
なので、ぜひ一度お参りしてみてください。
でも、梅雨の時期なので雨が降るとちょっとね・・・、それに来年の6月14日は月曜日のような気が・・・。
<香苗>